世界の秘密

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 (21〜30)



  21.神代文字(かみよもじ)


現在の定説では、中国から漢字が伝来するまで日本には文字がなかったとされていますが、本当にそうでしょうか?

日本では、古代から「太占」(ふとまに)とよばれる占いが行なわれていたそうです。太占とは、牡鹿の肩甲骨を焼いて、骨の割れ方を見て物事の吉凶を占う方法で、その際、骨に文字を書いて占った可能性は大いにあるので、古代日本に文字がなかったと断言することはできないと思います。

また、伊勢神宮の神宮文庫には、日本の古代文字である「神代文字」で書かれた奉納文が多数保管されているそうですし、他にも、神代文字が刻まれた石や木が残っている神社や、お守り札に神代文字が書かれている神社もあるそうです。

神代文字の種類はあまりにも多いので、ここではその代表として、『皇朝原始訓蒙 上』(梅村正甫:著、香泉書房:1873年刊) という本に載っている「土牘秀真文」(はにふたほつまぶみ)という神代文字をご紹介しましょう。

神代文字−土牘秀真文

【土牘秀真文】(画像は、『皇朝原始訓蒙 上』より。ただし、文字の配列をアイウエオ順に修正して掲載)

これを見ると、この文字は、アイウエオの5母音を基礎として、それに子音を組み合わせて非常に合理的に構成されていることが分かります。(これと同じような構成の神代文字は、他にもいくつかあります。)

また、この秀真文で書かれた古文書も存在しています。それは、「ホツマツタヱ」というもので、それによれば、神は「アワウタ」とよばれる次のような歌を日本全国に広めて日本語の乱れを正したそうです。

アカハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル スユンチリ シヰタラサヤワ
(「ほつまつたゑ 解読ガイド」 URL:http://gejirin.com/ より)

ちなみに、「ホツマツタヱ」を長年研究している知人によると、最初の「ア」は天を、最後の「ワ」は地を意味するそうです。そして、阿波踊りの「アワ」は天地の意味で、阿波踊りは天と地を結ぶ踊りなのだそうです。

なお、アイウエオの5母音を基礎とする50音図は、インドのサンスクリット語の影響を受けて成立したものであり、神代文字は仏教伝来以降にねつ造されたものだとする説もあるようですが、『五十音図の歴史』(山田孝雄:著、宝文館:1938年刊)という本によると、50音図そのものは日本人の発案によるものだそうです。

その説を要約すると、50音図は平安時代から存在するが、これが悉曇学(しったんがく=サンスクリット語の仏教経典を解読し発声するための学問)から生じたとする資料は室町時代に至っても存在しないこと、および、5母音を一括して「五音」と名づけたことに関して、悉曇学にも中国の音韻論にも源がないことから、50音図は日本人の創意によるものと考えざるをえないそうです。

しかも、古い時代の知識が、弥生時代以降に朝鮮半島や南洋諸島から日本に渡って来た渡来人の影響によって一時的に失われていた可能性も否定できないので、土牘秀真文の構成が現代の50音図に似ているからといって、後世の偽造であると断定することはできないと思われます。

また、古事記や日本書紀などの研究から、当時の母音の数は5母音ではなかったという説もありますが、それも漢字文化や渡来人の影響と考えれば説明がつくことなので、縄文時代の産物である神代文字が5母音から構成されていても不都合はないと思われます。

日本には未発掘の古墳や遺跡がたくさんあるので、私としては、いつか神代文字が刻まれた遺物が出土して、その存在が証明される日が来るのではないかと期待しています。 

なお、上の図では、ア行のオが「ヲ」に、ワ行のヲが「オ」になっていますが、どうも昔はこう書くのが一般的だったようです。参考までに、江戸時代中期(1731年)の50音図をご紹介します。この例では、ア行のオとワ行のヲだけでなく、ア行のエも間違っています。
 
江戸時代中期(1731年)の50音図

【江戸時代中期(1731年)の50音図】 (画像は、『五十音図の歴史』より)

余談ですが、これを見ると、ハ行は「唇音」と書かれており、唇を近づけて「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」と発音されていたようです。つまり、「腹が減った」は「ファラガフェッタ」となるわけで、昔の人が話す日本語を現代の人が聞いたら、とても奇妙に感じるかもしれませんね。 (2014年3月16日)


 

  22.ウヱツフミ


前回、神代文字で書かれた「ホツマツタヱ」という古文書が存在することをご紹介しましたが、これと同じぐらい有名な古文書に「ウヱツフミ」があります。この古文書は、また別の神代文字で書かれていて、この神代文字は一般には豊国(とよくに)文字とよばれているようです。

「ウヱツフミ」は、1223年に豊後国守護の大友能直(よしなお)が古文書をもとに編纂したとされる41綴りの大作で、72代にわたるウガヤフキアエズ王朝の記述があることで有名です。なお、神代文字で書かれた『ウヱツフミ』(神代文化研究会:編、1935年・1937年刊)は、近代デジタルライブラリーで閲覧可能です。

この本に、「ウヱツフミ」で使われている神代文字の50音図が載っているのでご紹介しましょう。
 
神代文字−豊国文字(新字体)の50音図

【「ウヱツフミ」の神代文字(豊国文字)の50音図】 (画像は、『ウヱツフミ』より)

これを見ると、この神代文字はカタカナに酷似しており、いかにも偽書という感じがしますが、「ウヱツフミ」の内容をよく読むと、「ホツマツタヱ」と同様、古い時代の記憶を伝えているのではないかと思われる部分が存在します。

例えば、古事記や日本書紀には、天孫瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の皇子は3人いたと書かれています。そして、このうちの2人が有名な海幸彦(うみさちびこ)と山幸彦(やまさちびこ)です。これを「ウヱツフミ」と比較したのが下の表です。(参考文献:岩波文庫の『古事記』、『日本書紀』)

 

長男

次男

三男

古事記

 火照命 = 海幸彦
 (ほでりのみこと)
 火須勢理命
 (ほすせりのみこと)
 火遠理命 = 山幸彦
 (ほをりのみこと)

日本書紀

 火闌降命 → 海幸
 (ほのすそりのみこと)
 彦火火出見尊 → 山幸
 (ひこほほでみのみこと)
 火明命 = 尾張連らの始祖
 (ほのあかりのみこと)

  ウヱツフミ  

 ほすせりのみこと  ほをりのみこと


これを見ると、多数決で「ウヱツフミ」の方が分が悪いように思われますが、実はそうでもないのです。

まず、古事記には、三男(火遠理命)の別名が天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)であると明記されているので、古事記の三男(火遠理命)と日本書紀の次男(彦火火出見尊)は同一人物ということになります。

また、名前が似ていることから、古事記の次男(火須勢理命)と日本書紀の長男(火闌降命)は同一人物と考えられます。ところが、古事記では長男が海幸彦とされており、矛盾が生じます。

そこで、想像をたくましくして、「ほすせり → ほすてり → ほてり → ほでり」になったと考えれば、古事記の長男と次男は同一人物で、日本書紀との矛盾は解消され、結局、皇子は2人しかいなかったことになります。

さらに、日本書紀は、「一書に曰く」(あるふみにいわく)として多くの異なる古文書の説を併記していますが、そのなかに、火明命は瓊瓊杵命の兄で、瓊瓊杵命の皇子は2人であるという説が2つ存在することから、日本書紀の三男(火明命)は間違って伝承された可能性があります。

以上の考察から、瓊瓊杵命の皇子に関する古事記や日本書紀の記述は、最終的に「ウヱツフミ」に一致する可能性があるので、私には、「ウヱツフミ」のすべてを偽書と断定することはできないと思われるのです。

最後に、上の神代文字の元になったと思われる、古い字体の神代文字の50音図が『ウヱツフミ』に載っているのでご紹介します。

神代文字−豊国文字(旧字体)の50音図

【古い字体の神代文字(豊国文字)の50音図】 (画像は、『ウヱツフミ』より)

こうなると象形文字に近い感じですが、この神代文字が刻まれた石や岩が各地に存在するそうなので、ご興味のある方はインターネットで検索してみてください。 (2014年3月28日)


 

  23.天孫の系図


前回、海幸彦・山幸彦の話題が出たので、今回はそれに関連する面白い話をご紹介しましょう。なお、古事記と日本書紀では登場人物の漢字表記が異なりますが、海幸彦・山幸彦という名称は古事記に特有なので、今回は登場人物の漢字表記を古事記に統一します。したがって、ニニギノミコトは「邇邇芸命」となります。

まず、『紀記論究 神代篇 巻之6 高千穂時代』(松岡静雄:著、同文館:1931年刊)という本には、海幸彦・山幸彦は異母兄弟だったという説が展開されているので、それをご紹介しましょう。

古事記によると、天孫・邇邇芸命は、大山津見神(おおやまつみのかみ=山を支配する首領)の娘の神阿多都比賣(かむあたつひめ)と結婚しますが、この人の別名は木花の佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)だったそうです。

松岡氏の研究によると、神阿多都比賣の「阿多」は地名で、一方、木花の佐久夜毘賣という別名が「木花が咲く」という意味なら「このはなさくひめ」となるはずで、それが「このはなさくびめ」なのは、木花が枕詞的なものだからだそうです。そして、佐久は地名、夜は御屋(宮)の意なのだそうです。

同一人物が異なる地名でよばれるのは不自然ですから、結局、神阿多都比賣と木花の佐久夜毘賣は別人ということになるのですが、こう解釈することによって、古代史の謎が明らかになるそうです。

『鹿児島県史 第1巻』(鹿児島県:編、1940年刊)という本によると、かつて、薩摩半島の南部には阿多という地名があり、そこを拠点とする阿多隼人(あたはやと)という異民族が存在したそうです。

高千穂の峰に降臨した邇邇芸命が、最初、阿多隼人の族長の娘と結婚し、海幸彦が生まれたと考えれば、薩摩半島南部の南さつま市に邇邇芸命の皇居跡とされる笠沙宮(かささのみや)跡があることや、海幸彦が隼人の祖とよばれたことも納得できます。

その後、邇邇芸命は、現在の宮崎市あたりで、その地方の豪族の娘の木花の佐久夜毘賣と結婚し、山幸彦(神武天皇の祖父)が生まれたと考えれば、宮崎にも邇邇芸命の皇居跡とされる奈古神社があることや、宮崎の名前が「宮(皇居)の先」という意味であることも説明がつきます。

さらに、海幸彦と山幸彦の争いも、古事記では、なくなって当たり前の釣り針に異常に執着する海幸彦の様子が描かれていて、いかにも不自然な感じがしますが、海幸彦と山幸彦が異母兄弟だったのであれば、母方の氏族間の争いを象徴的に描いたものだと理解することができます。

次は、邇邇芸命のお兄さんに関するお話です。

まず、古事記には、邇邇芸命に天火明命(あめのほあかりのみこと)というお兄さんがいたと書かれています。これは、以前「日本の霊性−2.天孫降臨」でご紹介したように、元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)に伝わる神宝、息津鏡(おきつかがみ)・邊津鏡(へつかがみ)を持って降臨した天孫・彦火明命と同一人物と考えられます。

彦火明命は、海部氏勘注系図(あまべうじかんちゅうけいず)によれば、尾張氏・海部(あまべ)氏の始祖とされています。そして、この氏族から卑弥呼が生まれたというのが桂川光和さんの説でした。

また、時代は下って、神武天皇が日向から大和に東征した際に、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天津瑞(あまつしるし)を神武天皇に献上して仕え、登美毘古(とみびこ)の妹の登美夜毘賣(とみやびめ)と結婚して宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が生まれたと古事記に記されています。

なお、登美毘古は、登美の那賀須泥毘古(ながすねびこ)のことで、神武天皇の大和入りを最後まで妨害した人物です。また、邇芸速日命は、先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)という古文書によると、邇邇芸命の兄の天火明命と同一人物とされています。

先代旧事本紀に関しては、松岡氏の『紀記論究 神代篇 巻之5 國讓』という本に詳しく論じられていますが、それによると、邇芸速日命は息子の天香語山命(あめのかごやまのみこと)と共に大和に降臨し、実は神武東征以前に亡くなっていたそうです。そして、その死後に宇摩志麻遅命が生まれ、この人が物部(もののべ)氏の祖となったのだそうです。

こういった情報をまとめると、次のような系図が描けます。

天孫の系図

この系図を見れば、約2000年前に起きた日本の始まりの様子がすっきりと理解できるのではないでしょうか?

なお、邇邇芸命の兄・彦火明命が、邇邇芸命の息子たちよりも若いことに関して、「日本の霊性−3.神武天皇」で述べた仮説では、天孫族は時間の進み方が遅い異界にいたため、降臨の少しの遅れが地上では数十年の差になったと推測しました。

この仮説は、前回ご紹介した日本書紀で、邇邇芸命の三男の名前が火明命で、尾張連(おわりのむらじ)らの始祖とされていることとうまく符合しているように思われます。

すなわち、邇邇芸命よりも少し遅れて降臨した彦火明命は、結果的に邇邇芸命の息子たちよりもやや若い世代となったため、彦火明命を邇邇芸命の三男とする間違った伝承が生まれ、これが日本書紀に収録されたと考えればすべてつじつまが合います。

ちなみに、前回ご紹介した「ウヱツフミ」の第36綴りには、「ほあけのみこと」という神が、「あめのおしほみみのみこと」のみこ(皇子)「あまてるくにてるひこほあけくしたまにぎはやひのみこと」であると書かれていて、これは先代旧事本紀の記述とほぼ一致しています。やはり、「ウヱツフミ」のすべてが偽書というわけではないようです。 (2014年4月17日)


 

  24.阿比留文字(あひるもじ)


数ある神代文字のなかで、最も有名なのが「阿比留文字」ではないでしょうか。『日本古代文字考』(落合直澄:著、吉川半七:1888年刊)という本にその50音図(正確には47音図)が載っているのでご紹介しましょう。

神代文字−阿比留文字

これは、一見するとハングルに似ているので、阿比留文字はハングルを基に偽造されたものだと考えている人もいるようですが、文字の複雑さから考えて、単純な阿比留文字を基に複雑なハングルが作られたと考える方が自然な感じがします。

この神代文字は、対馬の卜部(うらべ=占いを専門とする氏族)、阿比留氏に伝わり、そこから世間に知られるようになったため「阿比留文字」とよばれるようになったようですが、対馬は朝鮮半島に近いので、国内だけでなく朝鮮にも情報が伝わった可能性は大いにあると思います。

また、この50音図は、「21.神代文字」でご紹介した「土牘秀真文」とほぼ同じ構成(「ン」が欠けているだけ)ですが、よく見ると、左端のア行は「ア」と「オ」しかありません。さらに、ヤ行とワ行も微妙に異なっています。

日本語の発音は、時代とともに変化しているので、阿比留文字と土牘秀真文とで50音図の細部が異なるということは、両者が作られた時代が異なるためだと思われます。ひょっとすると、現代の50音図からの違いが大きい阿比留文字の方が、製作年代が古いのかもしれませんね。

次は、現存する阿比留文字ですが、インターネットで見つけた『大内神社 古代文字「阿比留文字」の考察』(丸谷憲二:著)という論文によると、岡山県備前市の大内神社や倉敷市の長尾神社、福岡県添田町の英彦山神宮などには現在でも阿比留文字が残されているそうです。

残念ながら、それらは製作年代が特定されていないので、ハングルが公布された1446年より古いという確証はありません。したがって、神代文字は存在しないという先入観を持った人が見れば、すべては否定的に見えてくるでしょうが、なぜ神聖な神社に見慣れない文字が残されているのか、その理由を真剣に考えれば、自ずと違った答えに辿り着くのではないでしょうか?

ちなみに、『日本古代文字考』の著者の落合氏は、カタカナの起源は、「22.ウヱツフミ」でご紹介した豊国文字等の神代文字だと断言しています。(これは、我々が日常的に神代文字を使用しているということを意味しており、実はとても衝撃的なことです。)

その理由として、落合氏は、カタカナは「象(カタ)神字(カムナ)」の意味であると推測し、『神代巻口訣』(じんだいかんくけつ=日本書紀神代紀の注釈書)に「神代文字象形也」とあることや、日本各地に残る古代文字に豊国文字が使われていることを指摘しています。

また、カタカナは漢字の偏(へん)や旁(つくり)から作られたとする学者の説には、漢字は数万もあるので、カタカナによく似た偏や旁を持つ漢字を見つけてこじつけることは可能だが、それでも学者が説明に苦しんで、説が定まらない文字があることを指摘しています。

我々は、カタカナは漢字の偏や旁から作られたという先入観を持っているので、豊国文字の50音図を見て怪しいという印象を持ちますが、そういった先入観を完全に捨て去ってもう一度豊国文字を見直してみると、新たな発見があるかもしれませんね。 (2014年4月30日)


 

  25.肥人書(ひじんのしょ)


神代文字のことを客観的に論じた本に、『国語及朝鮮語のため』(小倉進平:著、ウツボヤ書籍店:1920年刊)という本があります。この本には、肯定論、否定論それぞれの主張や論拠となる文献が紹介されていて、神代文字を研究する上でとても参考になります。

この本に、「肥人書」というものが出てきますが、それによると、「釋日本紀」(しゃくにほんぎ=日本書紀の注釈書)には「有肥人之字六七枚許」(肥人の字六七枚ばかり有り)とあり、これが日本固有の文字であるとする説が昔からあったそうです。

残念ながら、この本にはその書体が載っていないのですが、草書体風の文字だったようです。また、『日本古代語音組織考表図解説』(北里闌:著、啓光社出版部:1926年刊)という本には肥人書の書体が載っているのですが、不鮮明なので、『皇朝原始訓蒙』(梅村正甫:著、香泉書房:1873年刊)に載っている同じ書体をご紹介しましょう。なお、肥人書を「こまびとのて」と読む人もいるようです。

神代文字−肥人書

一部に振り仮名の読みにくい所がありますが、「ヒフミヨイム ナヤコトモチ ロラネシキ ルユヰツワ ヌソヲタハ クメカウオ エニサリヘ テノマスア セヱホレケ」という順番で書かれています。

なお、この書体の名称は様々で、『日本古代文字考』(落合直澄:著、吉川半七:1888年刊)には「節墨譜体」(ふしはかせたい)という名前で収録されていて、さらに「出雲文字」という類似の書体も紹介されていますし、『日本古代文字集』(粕谷正光:著、粕谷正光:1913年刊)には「古代文字」という名前で収録されています。

また、これを前回ご紹介した阿比留文字の草書体と考えて、阿比留草文字(あひるくさもじ)とよぶ人もいるようです。実際、『掌中神字箋』(大国隆正:著、真爾園:1873年刊)には肥人書が阿比留文字の草書体として収録されています。ただし、落合氏や粕谷氏は、阿比留文字の草書体として別の書体を収録しています。

いずれにしても、肥人書はかなり広く使われていたようで、『皇朝原始訓蒙』によると、鹿嶌神社(茨城県の鹿島神宮?)、大三輪ノ神社(奈良県の大神神社)、彌比古神社(新潟県の彌彦神社)、鶴岡八幡宮、法隆寺にその書体が伝わっているそうです。

そもそも肥人とは何かというと、かつて九州にいた熊襲(くまそ)という南洋系の異民族と関係があるようです。『神代の日向』(神武養正講社:編、日向社:1941年刊)という本によると、熊襲は肥人(くまびと)と襲人(そびと)を合わせた総称で、いずれも山に住む人々のことだそうです。

そして、肥人は山の隅(くま=折れ曲がって入りくんだ所)に住むもの、襲人は山の背(そ)に住むものという意味だと思われるそうです。つまり、肥人は山の中腹に住み、襲人はそれより上の方に住んでいたようです。また、肥人のいた土地には、「熊」、「隅」、「球磨」といった名前が残っているそうです。

さらに、『日本古代語音組織考表図解説』によれば、肥人書はフィリピン文字と類似性があるそうです。したがって、肥人書は南洋系の異民族の文字だった可能性があるため、これを神代文字と断定することはできないかもしれませんが、非常に古い文字であることは間違いないようです。

ひょっとすると、天孫降臨以降、肥人と大和民族との交流が盛んになり、肥人書が日本各地に広まっていったのかもしれませんね。 (2014年5月10日)


 

  26.岩戸蓋石(いわとふたいし)


神代文字が実在したことを証明する物証を探していたところ、『上代神都高千穂研究資』(吉原平三郎:編、高千穂神蹟保存研究会:1924年刊)という本を見つけました。この本には、神代文字が刻まれた石が宮崎県高千穂峡の近くの天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)にあると書かれていて、その拓本と思われる写真が載っているのでご紹介しましょう。

神代文字−岩戸蓋石の拓本

これはやや不鮮明なのですが、『日本神代文字研究原典』(吾郷清彦:著、新人物往来社:1996年刊)という本に、この石(岩戸蓋石)の写真を模写した、もっと鮮明な図が載っているのでご紹介しましょう。

神代文字−岩戸蓋石の模写

これは、どうやら「22.ウヱツフミ」でご紹介した豊国文字で書かれているようです。ただし、旧字体が混ざっていて、また、読めない文字もあるのですが、『上記鈔訳 歴史部 第一』(吉良義風:抄訳、中外堂ほか:1877年刊)という本に吉良義風氏の訳が載っているのでご紹介しましょう。

1行目: ソヂ(夫) ミキ(御酒)ミカ ミヅ(水)ミカ
2行目: ミケ(御食)ミカ トオホエ コレ(是)ノ
3行目: ウツハ(器)ハ
4行目: ホノアカリノミコト(火之明之尊) コレ(是)ノ アメノイハト(天之岩戸)
5行目: ニ コモリマストキ(籠座時)ノ アソビ(游)ノ ソ
6行目: ナヘ(供)ニ マツ(奉)ル ヒトツ(一)ノ オホミカゝミ(大御鏡)ハ
7行目: スメオホミカミ(皇太御神)ノ ミタマ(御靈)ト シ(爲)テ アメノイ
8行目: ハト(天之岩戸)ニ ノコ(遺)シ モチイダ(持出)シゝナルヲ ア
9行目: メノイハヤド(天之岩屋戸)ノ コチ(此地)ノ キシ(岸)ニ イハ(石)モ
10行目: テ ヨヒラ(四枚)ニ タテ(立)テ
11行目: カク(隠)シ オ
12行目: クナリ(置也)

なお、最初の3つのミカに対して、吉良氏は瓦偏に長いと書く漢字を当てていて、この漢字の意味は、「口が細長く胴が膨らんでいる瓶(かめ)」だそうです。(ksbookshelf.comより) また、これは直訳ではなく、当時の日本語に訳されているようで、例えば「ワ」が「ハ」に、「オゝ」や「ヲゝ」が「オホ」に、それぞれ置き換えられています。

この本によると、この石は、文政4年(1821年)に天の岩戸の遥拝所を建設しようとして、古い鏡7面と4種類の陶器とともに発掘されたそうです。したがって、最初の3行は4種類の陶器について書かれているようです。そして、4行目以降は、陶器とともに鏡を隠した経緯が説明されているようです。

ここで、以前ご紹介した豊国文字の50音図を使って、もう少し詳しく岩戸蓋石の内容を分析してみましょう。例えば、7行目と8行目は次のように解読できます。ただし、黒字は新字体、青字は旧字体で、赤字は解読不能のため、吉良氏の解読結果を引用しています。

7行目: スヲゝ ミテ アメ
8行目: ワト ノゴ モシゝナルヲ 

これを見ると、豊国文字の新字体と旧字体が混在していますが、その理由としては、豊国文字が旧字体から新字体に移行する過渡期にこの岩戸蓋石の文字が書かれたと考えるのが合理的だと思われます。すると、解読できない文字は、過渡期にだけ存在した書体と考えればつじつまが合います。

もしそうなら、こういったものを後世の人が偽造することは困難ですから、岩戸蓋石は、豊国文字が神代文字であることの有力な証拠となるでしょう。そこで、この仮説を検証するため、豊国文字の旧字体が何をかたどった文字なのかが分かる50音図を『日本古代文字考』(落合直澄:著、吉川半七:1888年刊)から転載しました。

神代文字−豊国文字旧字体その2

なお、これを見ると、左下のロとヲが「22.ウヱツフミ」の表と逆になっていますが、どうやらこちらが正しいようです。これを使って、解読できなかった「ミ」を、旧字体、岩戸蓋石の文字、新字体の順番に並べると次のようになります。



こうして見ると、解読できなかった岩戸蓋石の文字が、豊国文字の旧字体と新字体の中間的な書体であることは明らかなようです。他の文字も同様に並べると以下のようになり、イとニは明らかに中間的な書体に見えます。シとマは、それぞれ雫と眉の特徴を有しているようですが、他の文字と紛らわしくなったので、最終的に別の形状に変化したのかもしれません。

  
  

以上の考察から、この岩戸蓋石の文字は、豊国文字が旧字体から新字体に移行する過渡期に書かれたことは間違いないと思われます。したがって、豊国文字は、後世の偽造ではなく、正真正銘の神代文字であると断言してもよいのではないでしょうか。

そうなると、「21.神代文字」でご紹介した江戸時代中期の50音図で、間違っていると思われたア行のエとオが、実は豊国文字の50音図に由来する正しい表記だと考えられますから、カタカナが豊国文字等の神代文字を基に作られたとする落合氏の主張も、とても現実味のある話だと思われるのです。 (2014年5月25日)


 

  27.竹内文献


岩戸蓋石の外にも、何か神代文字が刻まれた遺物がないか、近代デジタルライブラリーを探索していたところ、『皇祖皇大神宮御神宝の由来』(神宝奉賛会:1933年刊)という本に載っている「神籬立瓶」(ひもろぎりっぺい)というものを発見しました。

これは、阿比留文字が刻まれた土器で、神籬(ひもろぎ)とは、goo辞書によると「神事で、神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。」とのことなので、これに榊を立てたようです。

竹内文献−神籬立瓶

しかし、どうやらこれは後世の偽造のようです。というのも、この本を出版した神宝奉賛会の総裁である竹内巨麿(たけうちきよまろ)氏は、『司法研究 報告書第二十一輯八』(司法省調査課:1937年刊)という本によると、「多種多様の古文書、古器物等を偽作し」たとされる人物だからです。

それによると、竹内氏は、重症の脚気を治すため、御嶽教(おんたけきょう)に入信して修行者となり、明治33年(1900年)に御嶽教天津(あまつ)教会を開設して天津教を創始したそうです。そして、布教のため、修業中に修得した神代文字を利用して数々の「御神宝」を偽造したとされています。

実際、御神宝の中には「モーゼの十戒石」なるものもあり、偽造は間違いないようです。また、『皇祖皇大神宮御神宝の由来』によると、写真の土器は「幾千萬年」伝えられてきたとされていますが、それだけの長期間、土器が無傷で残っているとは考えにくく、素人目にも怪しいことは疑いようがありません。

ところで、竹内巨麿氏は、「竹内文献」という古文書を発表したことで有名です。竹内文献は、「ウヱツフミ」、「宮下文献」とともに日本三大奇書とよばれているもので、宮下文献は次回ご紹介するとして、今回は竹内文献についてご紹介しましょう。

竹内文献は、太古の歴史を記述したとされる古文書で、現在では『定本 竹内文献』(武田崇元:著、八幡書店:1999年刊)という本によってその全貌を知ることができます。

ただし、古文書といっても大部分が現代語に翻訳されていて、神代文字の部分はほんの少ししかありませんし、系図が延々と続くので、ウヱツフミのような内容を期待して読むと失望するかもしれません。

また、竹内文献では、天皇家の始祖を「百億萬年」という途方もない時間の単位でさかのぼって記述してあり、他者の追随を許さないという意味では確かに「奇書」ですが、残念ながら、この本には日本の古代史を解明できるような資料は見あたらないようです。

特に私が気になったのは、格調の低さです。本物の古文書の場合は、読んでいて格調の高さを感じるものですが、竹内文献では、例えばウガヤフキアエズ王朝第59代目の部分にある世界再統一の神勅に、

「先代六千三百七十五年の歳より~靈險無極天賦天資~靈守るぞ先代の天皇と~主に必ずソモクナヨソモクト天罰殺すぞ死ぬるぞツブレルゾマケルゾナヤムゾ萬笑にアフゾと・・・」

と書かれていて、思わず笑ってしまいました。これはやはり、太古の記録というよりは、比較的近代の人が創作したフィクションのように思われます。

なお、竹内文献に関しては、専門家が現物を見て詳細な解析をした『天津教古文書の批判』(狩野亨吉:著)という本が青空文庫で閲覧可能なので、ご興味のある方はご覧下さい。神代文字の原文も記載されています。

さて、ここまでお読みになった方は、竹内文献や天津教の御神宝は全然信用できないとお思いでしょうが、実は『司法研究 報告書第二十一輯八』には、竹内氏が、神代文字で書かれた古文書一巻と、同じく神代文字が刻まれた劔(つるぎ)大小二振を養祖父から相続したと書かれています。

これは、司法省の役人が神代文字の存在を認めていたということであり、ひょっとするとそれらは貴重な資料だったかもしれないわけですが、今となってはそれが何だったのか不明であり、残念なことです。もし、竹内氏が偽造などに関与せず、相続した資料を正直に公開していたら、歴史が変わっていたかもしれませんね。 (2014年6月7日)


 

  28.宮下文献


『古神道の本』(学習研究社:1994年刊)によると、宮下文献は、富士吉田市郊外にある小室浅間神社(こむろせんげんじんじゃ)の宮司である宮下家に伝わる古文書で、秦の始皇帝の時代(紀元前221年〜紀元前210年)に不死の妙薬を求めて日本に渡来した徐福が、富士山麓の阿祖山太神宮の古伝をまとめたのがその起源だそうです。

そして、宮下文献の現代語訳である『神皇紀』(三輪義熈:著、隆文館:1921年刊)によると、高天原は富士山北麓にあり、そこは太古の昔から日本の都だったそうですが、延暦の大噴火(西暦800年頃)によってすべてが溶岩の下に埋もれてしまったのだそうです。

この『神皇紀』は、近代デジタルライブラリーで閲覧可能で、これには、太古の時代の富士山周辺の地形の変化なども地図として記録されており、とても興味深く見ることができます。

宮下文献−富士高天原

【富士・高天原の地図】 下が富士山の火口、黒く見えるのが昔の富士五湖 (画像は『神皇紀』より)

もっとも、富士山北麓に都市があったことを証明するには、遺跡を発掘するしかありませんが、富士山は何度も大噴火を起こしていて、溶岩や火山灰の厚みも相当なものでしょうから、発掘は非常に困難だと思われます。

そこで、検証可能な記述として、51代、2000年以上にわたって続いたとされるウガヤフキアエズ王朝を取り上げてみましょう。なお、ウガヤフキアエズ王朝とは、神武天皇の父、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)が、実は長期の王朝を築いていたとする説です。

『神皇紀』によると、ウガヤフキアエズ王朝では、38代目と48代目は先代の王の弟が後継者となったものの、それ以外は必ず先代の王の実子が後継者となっていて、王は死ぬまで統治し、王が妃より先に死んだ場合は妃が死ぬまで摂政を務めています。そして、歴代の王の寿命と統治期間、および、妃の摂政期間が正確に記録されています。

そこで、n代目の王の寿命を x(n)、統治期間を y(n)、妃の摂政期間を z(n)、王が生まれてから後継者が誕生するまでの期間を s(n)とすると、次のような関係が成り立ちます。

宮下文献−計算式

この関係式を用いて、歴代の王について、その王が後継者を得るまでの期間 s(n)を求めると以下のようになります。

n 代目

王の寿命 x(n)

王の統治期間 y(n)

摂政期間 z(n)

後継者を得るまでの期間 s(n)

1

450

277

20

230

2

371

131

0

211

3

305

145

0

215

4

140

50

30

22

5

203

55

0

-8

6

251

40

22

133

7

198

58

0

97

8

143

42

0

-12

9

218

63

0

102

10

163

47

23

122

11

89

25

20

-107

12

259

43

0

179

13

128

48

25

-4

14

193

36

15

62

15

176

30

40

29

16

228

41

22

149

17

137

36

22

49

18

137

27

20

69

19

108

20

20

-95

20

243

20

13

183

21

108

35

13

-99

22

260

40

0

134

23

143

17

0

38

24

128

23

0

45

25

93

10

30

29

26

114

20

0

24

27

110

20

31

55

28

121

35

22

73

29

110

40

20

40

30

132

42

0

9

31

173

50

0

-24

32

240

43

0

145

33

138

43

0

45

34

138

45

0

41

35

127

30

7

13

36

146

25

3

57

37

117

25

4

38

147

8

0

55

39

112

20

11

9

40

147

33

0

43

41

139

35

0

44

42

140

45

0

20

43

138

18

0

45

44

138

45

5

67

45

116

40

0

38

46

118

40

7

41

47

131

47

0

48

158

45

0

60

49

131

33

0

39

50

142

50

0

47

51

140

45

14


ここで、赤字の部分は、後継者が父親より早く生まれたことを示し、青字の部分は、後継者が父親の幼少期または高齢期に生まれたことを示しています。なお、単位は、33代目までは根(300日)で、33代目の36根のときに、単位が根から年(月の周期の10か月≒295日?)に変更されています。

これを見ると、父親より早く生まれた子が7人、父親が9根(約7.4歳)のときに生まれた子が2人、父親が122根(約100歳)以上の高齢になってから生まれた子が10人いて、どうやら計算の苦手な人が適当に数字をあてはめたように見受けられます。

しかも、この間(私の計算では約2240年間)、地震に関する記述が2回しかなく、噴火、津波、日食に関する記述は一切ありません。これは、精密な王位継承の記録に比べていかにも不自然であり、竹内文献と同様、架空の物語をでっち上げた可能性が高いと思われます。

また、『寒川神社志』(寒川神社:1932年刊)という本によると、この宮下文献に寒川神社のことが書かれているので、その文章を参考として載せているのですが、「前後僞作の點(てん)掩(おお)ふ可からざるものあり」という但し書きがあり、寒川神社の関係者が見てもねつ造は明らかだったようです。

というわけで、私は宮下文献を偽書と判断しますが、それにしても、誰が何の目的でこういったものを創作したのか不思議ですね。強いて理由を考えるなら、かつて富士山周辺で生活していた古い集団の断片的な記録や言い伝えを継承していた人が、ウヱツフミを読んでインスピレーションを受け、壮大な王朝史にまとめ上げたのでしょうか?

そう考えると、この文献のどこかに真実の記録が眠っている可能性までは否定できないかもしれません。宮下文献をより深く研究したい方は、宮下家に伝わる貴重な写本類の写真集である『~傳富士古文獻大成』(八幡書店:1986年刊)をご覧ください。一見漢文のように見える文書が多数ありますが、実は日本語で書かれているので、慣れれば普通に読むことができると思います。 (2014年6月17日)


 

 29.ウヱツフミ再考


これまで、竹内文献や宮下文献を偽書と断定してきたわけですが、今回は、こういった偽書がどのように作られたのか、その過程を考察しながら、ウヱツフミが本当に偽書なのかどうか、内容を再検討したいと思います。

日本書紀には、神武天皇が「天祖(あまつみおや)の降跡(あまくだ)りましてより以逮(このかた)、今に一百七十九万二千四百七十余歳。」と語る箇所がありますが、ひょっとするとこれが、様々な偽書を生み出す原因となったのかもしれません。

なお、この数字は「ももよろづとせあまり ななそよろづとせあまり ここのよろづとせあまり ふたちとせあまり よほとせあまり ななそとせあまり」と読むそうです。(岩波文庫『日本書紀』より)

また、日本書紀自体も、第16代仁徳天皇までは在位年数が不自然に長い天皇が多く、中国の歴史書ともうまく整合しないことから、神武天皇即位の年代が古くなるよう意図的に歴史を改ざんしているように見受けられます。したがって、厳密に言えば日本書紀も偽書であると思われます。

ところで、古事記や日本書紀に書かれている神代の物語は、ウヱツフミやホツマツタヱにもほぼ共通して記載されています。ということは、基本となる神話がある時期に形成され、それを基に様々な古文書が作られたと考えるのが正しいようです。

そこで、問題を整理するため、まずは神話の原型が形成された時期がいつ頃かということを明らかにしたいと思います。

そのため、「日本の霊性−12.迦毛大御神」でご紹介した阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)が、親友だった天若日子(あめのわかひこ)の葬儀に参列した際に、二人の容姿があまりにも似ていたため、天若日子の父や妻から死んだ天若日子と間違われ、それを怒って剣で喪屋を切り伏せ、飛び去ったというエピソードを取り上げてみましょう。

このとき、妹の高比賣命(たかひめのみこと)が、飛び去った兄の名前を明らかにするため詠んだとされるのが次の歌です。なお、理解しやすいように、『紀記論究 建国篇 古代歌謡(上)』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)という本に載っている松岡氏の訳を合わせてご紹介します。

古事記の原文

読み方

松岡静雄氏の訳

 阿米那流夜
 淤登多那婆多能
 宇那賀世流
 多麻能美須麻流
 美須麻流邇
 阿那陀麻波夜
 美多邇
 布多和多良須
 阿治志貴多迦
 比古泥能迦微曾
 あめなるや
 おとたなばた
 うながせる
 たまのみすまる
 みすまるに
 あなたまはや
 みたに
 ふたわたらす
 あぢしきたか
 ひこねのかみぞ
 天(アメ)の
 弟棚機(姫)の
 首にかけられておられる
 珠玉を貫いた連環
 連環の (邇(に)は迺(の)の誤写か?)
 孔玉は
 谷を
 二つ渡られる=二つ跳び超えなさる
 阿遅志貴高
 日子根神であるぞよ

これは、もう少し意訳すると、「高天原の機織姫が首にかけておられる珠玉の輪よ、その孔玉のように麗しいお姿は、谷を二つも跳び超えなさる阿遅志貴高日子根神であるぞよ」となります。

ここで問題になるのが、「たなばた=棚機」という言葉です。『日本古語大辞典』(松岡静雄:著、刀江書院:1937年刊)によると、棚機は、雄略天皇の時代に日本に渡来した漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)といった織物技術者によってもたらされた新型の織り機を指す言葉だったようです。そのため、松岡氏はこの歌を後世の作と断定しています。

なお、棚機は高機(たかばた)ともよばれたようですが、『紡績と機織法』(杉田廉:著、大日本文化研究会:1925年刊)という本に高機の図が載っているので、参考までにご紹介します。

高機

【高機】 (画像は『紡績と機織法』(杉田廉:著、大日本文化研究会:1925年刊)より)

棚機が輸入された時代の天皇である雄略天皇は、倭の五王の一人とされていて、5世紀後半に活躍した人物のようです。したがって、この歌は早くても5世紀後半以降に詠まれた歌であると推定できます。

一方、阿遅志貴高日子根神は、大国主命の息子で、神武天皇よりもはるか昔の人物ですから、その物語に5世紀後半以降に詠まれた歌が含まれているということは、ある意味、古事記も偽書であると判断することが可能です。

ただし、この場合は故意に物語を創作したというよりも、最初は神楽(かぐら)や猿楽(さるがく)を演じるための脚本として紡がれていった美しい物語が、古事記が編集された8世紀には史実と混ざり合い、どこまでが事実でどこからが創作なのか区別できなくなっていたというのが真相のような気がします。

ところで、この歌は夷曲(ひなぶり)という様式の有名な歌だそうで、日本書紀にも、「一書に曰く」(あるふみにいわく)として、これとよく似た歌が収録されています。また、ウヱツフミとホツマツタヱにも同様の歌が載っているので、結局、神話の原型が成立したのは、早くても5世紀後半以降と考えてよさそうです。

そして、この神話の原型を基に、様々な集団が、神代文字で書かれた資料や口伝えの伝承を加味して、それぞれ独自の歴史書を作り上げていったのではないでしょうか?

その際、冒頭でご紹介した「天祖の降跡りましてより以逮、今に一百七十九万二千四百七十余歳。」の天祖(あまつみおや)を天照大御神と考え、年数を文字通り179万2470年と解釈したのが、次回ご紹介する「ホツマツタヱ」だと思われます。

一方、天祖をニニギノミコトと考え、179万年が非現実的な数字なので、年数を179+2470=2649年と解釈したのが「宮下文献」だと思われます。これは、後継者の山幸彦の寿命が156,000日(約427年)とされていて、これに前回ご紹介したウガヤフキアエズ王朝の2240年を足すと2627年となることから、こう推測しました。

これに対して、古事記やウヱツフミには、年数に対するこだわりがないようなので、これらは他の古文書に比べて作為的な嘘は少ないのかもしれません。特にウヱツフミは、古そうな単語が多く、特異な風俗習慣や伝説なども豊富に収集されているので、すべてを創作と考えるのは無理があると思われます。

さらに、ウヱツフミでは、宮下文献と違って豊富なエピソードによって人物が活き活きと描かれており、王が急死したり、娘が王位を継承して婿を迎えたり、世継ぎが生まれなかったりと、現実にありそうな歴史が繰り広げられているので、何らかの史実を反映している可能性は否定できないと思われるのです。

もちろん、ウヱツフミに書かれているウガヤフキアエズ王朝の存在は、そのままでは認められませんが、これを、大和朝廷と並行して存在した九州の王家に関する記録と考えれば、それほど不自然ではないのかもしれません。つまり、神武東征後も九州にとどまった神武天皇の兄弟、あるいは甥(おい)の一族がいたという考えです。

そして、彼らが現在の宮崎県北部にある高千穂峡周辺に移住したため、そこで再度天孫降臨伝説が発生したと考えると、高千穂が2か所存在することも説明がつきますし、ウヱツフミが大分県で発見されたことも納得がいくのではないでしょうか?

実は、この考えを支持する記述がウヱツフミにあります。ウガヤフキアエズ王朝の15代目の出来事として、ウヱツフミの第26綴りに「クダラ」という言葉が出てくるのですが、これは前後の文脈から「百済」のことだと思われます。

百済は、西暦346年に建国され、西暦660年に滅んでいるので、ウガヤフキアエズ王朝が神武天皇以前の王朝であるとすると矛盾が生じます。しかし、2代目が神武天皇と同世代(西暦100年頃)の人物であれば、一世代25年として、25×14=350なので、15代目は西暦425〜450年頃の人物となりますから、矛盾は解消します。

また、日本で紙が使われるようになったのは7世紀以降だそうで、それまでは、文字は木の板に墨で書かれていたようです。そして、もっと古い神代文字の資料は、粘土板や木の板に刻まれていたはずです。そのため、古い歴史を整理して文書化する際に、資料の順番が分からなくなったり、入れ替わることがあったとしても不思議ではないと思われます。

したがって、この王家の歴史を、後世の人が誤って神武天皇以前に存在したウガヤフキアエズ王朝として編集してしまった可能性も大いにあるのではないでしょうか? 私の印象としては、本来のウヱツフミは、竹内文献や宮下文献とは異なり、古い風俗習慣や伝説を正直に伝えた古文書だったのではないかと思われるのです。 (2014年7月6日)


 

 30.ホツマツタヱ


ホツマツタヱは、五七調の40アヤ(文=章)から成る叙事詩で、「21.神代文字」でご紹介した「土牘秀真文」(はにふたほつまぶみ)で書かれていることが最大の特徴です。なお、ホツマツタヱの解析にあたっては、「ほつまつたゑ 解読ガイド」(URL:http://gejirin.com/)というサイトを参考にさせていただきました。

ホツマツタヱでは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)のことを「アマテル」とよび、男性であったと伝えています。また、古代日本には独自の暦があり、スス(鈴)=6万年、ヱ(枝)=60年、ホ(穂)=1年という単位を使って、アマテルが誕生した年を、

21スス125ヱ31ホ = 1,267,531年

と伝えています。(天の巻4アヤ) そして、この暦が終了して新しいアスス(天鈴)という暦がスタートしたのが、

51スス0ヱ1ホ = 3,060,001年

とされるので、差し引き1,792,470年となり、前回ご紹介した日本書紀の数字が出てきます。ちなみに、神武天皇即位の年はアスス58年だそうです。

なお、179万年という数字は非現実的なので、これを適当な数字で割り算して現実味のある暦年に変換し、ホツマツタヱを解読したと主張する人もいるようですが、根拠が薄弱で説得力に欠けるようです。はっきりしているのは、地の巻28アヤにおいて、アマテル自身が自分の人生を振り返って、

ワレハ タミノタメ ニカキオハミテ モナソミヨ フチヰモトシ ナカラエテ
(我は 民のため 苦きを食みて 百七十三万 二千五百年 永らえて)

と語っている点です。173万年も生きた人が実在したとは信じられませんから、これは、ホツマツタヱが現実の世界の話ではないということを強く示唆しているように思われます。したがって、ホツマツタヱを読む場合、細心の注意を払わないと、何が真実か見失うことになってしまうでしょう。

また、ウヱツフミと読み比べてみると、ウヱツフミの方が登場人物が圧倒的に多く、ホツマツタヱでは有名人が使い回されている印象を受けます。もし本当に百万年単位の歴史を記録しているのなら、登場人物の数において、ホツマツタヱがウヱツフミを圧倒していてもおかしくないでしょう。

そして、ホツマツタヱの最大の問題は、天孫降臨を否定していることでしょう。ホツマツタヱでは、アマテルの功績により日本は長く平和になります。そして、アマテルの孫のニニキネ(日本書紀の瓊瓊杵尊に相当)は、最初は関東にいたのですが、新田を開発するため九州に移住したという筋書きになっています。

しかし、中国の歴史書によれば、1世紀以前の日本では小国が乱立しており、太古の昔から日本が統一されていたという事実はなかったと思われます。また、鉄器を持っていなかったと思われるニニキネが、どうやって新田を開発したのか大いに疑問ですし、ニニキネが新田を開発したという伝承が九州地方に存在するという話も聞いたことがありません。

しかも、天孫降臨がなかったとすると、アマテルの子孫が日本中にたくさんいたことになりますから、タケヒト(神武天皇に相当)の存在価値が相対的に低下することになりますし、もっと言えば、統一された日本において、アマテルの正統な後継者が九州の田舎に住んでいたというのも不思議な話です。

私としては、それほど多くの軍勢を持っていなかった神武天皇が、近畿地方の豪族を服従させ、日本を統一することができたのは、天孫降臨が事実だったからに他ならないと思っています。

問題は他にもあります。ホツマツタヱは、日本武尊(やまとたけるのみこと)を「ヤマトタケ」と書いています。日本書紀によると、日本武尊は第12代景行天皇の皇子で、最初は小碓尊(をうすのみこと)という名前でしたが、九州の熊襲を退治した際に、敵から「日本武」という名前をもらったとされます。

面白いことに、古い文献で「日本武」の振り仮名を調べると、『世界智計談 上』(村田尚志:編、金松堂:1874年刊)、『歴史問答作文 上』(堀達之助:著、出雲寺万次郎:1881年刊)、『新撰詩文登階 下』(佐藤利信:編、1882年刊)、『和漢三才図会 巻之26 神社仏閣名所』(寺島良安:編、内藤書屋:1890年刊)などでは、「ヤマトタケ」、または「ヤマトダケ」でした。

そして、この振り仮名が「ヤマトタケル」となるのは、明治26年に出版された『小学帝国史 前科 上の巻』(笹本恕:編、神戸書店:1893年刊)からでした。つまり、古い本ほど「ヤマトタケ」となっているわけです。

この理由を推測すると、元来「ヤマトタケル」だったものが、漢字の伝来以降、「タケル」に「武」という漢字をあてたため、後世の人はこれを「タケ」と読んでしまい、江戸時代にはこの間違った読み方が広く定着していたのだと思われます。それが、明治維新によって旧薩摩藩の人々が政府の役人となり、正しい読み方を伝えたため、歴史の教科書が「タケル」に書き換えられることになったのではないでしょうか?

もしこの推測が正しければ、ホツマツタヱは漢字で書かれた文献を参照した可能性が高く、その編集時期はかなり後代に下ると考えられるのです。

また、インターネット上の情報によると、新しい単語が使われているという問題もあるようです。例えば、天の巻13アヤには、もし妻が子を生まない場合はメカケ(妾)を置いてタネ(種=子)を作れとか、妻と妾が同居すれば家が乱れるなどと書かれていますが、妾は比較的新しい言葉なので、江戸時代に編集されたのではないかという指摘もあるそうです。

確かに、古代社会は母系社会で、結婚も「妻問い婚」といって、夫婦が同居するのではなく、夫が妻の実家を訪問する形態が一般的だったそうですから、そもそも妾という概念が存在しなかったでしょうし、仮にあったとしても、妻と妾が同居することなどありえなかったはずですから、これは鋭い指摘だと思われます。

ホツマツタヱは、それ以外にも突っ込みどころの多い書物ではありますが、最悪江戸時代に編集された可能性があることを理解して読めば、どこが新しくてどこが古いのか自分で推理することもできると思いますので、それなりに楽しく読めるのではないでしょうか?

例えば、ホツマツタヱには「ハラミヤマ」という山が登場するのですが、これは「ほつまつたゑ 解読ガイド」によると富士山のことで、どうやらアマテルは富士山麓の静岡県側に都を築いていたようです。これは宮下文献とも共通することで(ただし、宮下文献では山梨県側)、かつて富士山周辺に有力な集団が存在していた記憶を伝えているのかもしれません。

また、ホツマツタヱでは、アマテル以前の古い時代の様子は東日本を中心に描かれています。これは、縄文時代の遺跡が東日本に集中していることと符合しているように思われます。縄文時代の遺跡に関する情報は江戸時代にはなかったはずですから、これはひょっとすると、ホツマツタヱが縄文時代の記憶を伝えているということなのかもしれません。

ただし、欲を言えば、大量の石器が出土したことで有名な一ノ坂遺跡(山形県米沢市)や、長期の大集落として有名な三内丸山遺跡(青森県青森市)、黒曜石の産地として有名な鷹山遺跡群(長野県小県郡長和町)などの縄文時代の遺跡を連想させる記述があればよかったのですが、私が見る限り、ホツマツタヱにはそういった情報は皆無でした。

こういった物理的な証拠との対比ができないことは、ホツマツタヱの大きな弱点で、古い時代のことを伝えていると主張している割には、肝心なことはあまり書かれていないように思われます。しかも、書かれている内容が、ある意味ウヱツフミ以上に過激なので、日本三大奇書の座は、ホツマツタヱに譲るべきなのかもしれませんね。 (2014年7月27日)


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